こんな院生(学生)が欲しい – 日本語1


佐藤俊樹(2000) 『不平等社会日本』中公新書
序章 『お嬢さま』を探せ! より


問題1 次の文章を読み、以下の問(1)〜(3)に対して日本語で答えよ。

(1)下線部1で筆者が謝っているのは何故か、説明せよ。
(2)下線部2はどのような意味か。
(3)下線部3の「この規準」がおそろしく、残酷なのは何故か。その理由を具体的に説明せよ。

もう10年ぐらい前になるだろうか。『お嬢さま』がマスコミの大きな話題になったことがある。『お嬢さま』ブームのはしりである。
なぜ『お坊ちゃま』ではなく『お嬢さま』かという疑問はとりあえずおいておこう。『お嬢さま』とは無縁の私にはそれこそ海の向こうの話だったが、今も強烈におぼえていることがある。たまたま手にとった雑誌の記事に、「今やお嬢さまの究極の規準はどこの病院で産まれたかだ」とあったのである。
それによると、本当の『お嬢さま』であるには、その辺――すみません! ――の病院で産まれてはダメで、名のある病院で産まれてないといけない。たしか、信濃町の慶応大学付属病院とか山王病院とかがあがっていたと思う。
それを読んで、私は思わず「う−ん」とうなってしまった。
うなったのにはもちろん理由がある。
まず、あがっているのはすべて東京の病院であった。逆にいえば、「地方」出身者はそれだけで「お嬢さま』にはなれない。別に『お嬢さま』になりたいわけではないが、「地方」出身の私にとってはやはり不愉快だった。
それだけなら、まあよくあることだ。思わず「うーん」といったのにはもっと積極的な理由がある。産まれた病院という落としどころ が、なんとも微妙で、なんというか、残念ながらよくできていたのである。
産まれた病院が究極的な規準だというのは、いいかえれば、それ以外の規準はあてにならないということである。『お嬢さま』の常識的なイメージは、東京なら渋谷区松濤や田園調布や成城、関西なら芦屋みたいな高級住宅地にすみ、名門女子高校や名門大学をでて、高級車に乗っている、というあたりだろう(この想像力の貧困さにはわれながらうんざりするが……)。それらがすべてあてにならない、いくらでもゴマカシがきくというのである。
たしかに、高級車ならお金があれば誰でも買える。高級住宅地となると、ケタはちがうが、やはりお金を出せば買える。名門高校や名門大学になると、お金だけではなくて、勉強もできないといけないが、それでも本人が努力すればなんとかできる。
たんに「できる」というだけではない。実際に「そうしている」というのだ。地方から単身上京した人々が努力と倹約のすえに、高級住宅地や高級車を購入する、そして子どもには塾にいかせ家庭教師をつけたりして、名門高校や大学に進学させる。そういう成り上がりのニセ『お嬢さま』(ニセでも本物でもどうでもいいと私は思うが)がたくさんいないと、いや正確には、そう信じられていないとこういう話は出てこない。
逆にいえば、お金や表むきのステイタス、学歴などは本人の努力次第でなんとかなる――それが今から10年ぐらい前、1980年代までの日本の常識だったのである。
それに対して、産まれた病院というのは、本人にはまったくどうしようもない。オギャーと一声さけんだときにはもう決まっているのだから。では親にとってはどうか?
たしかに親は病院を決めることができる。だが、例えば「地方」から上京して必死で働いている人間が、東京の一等地にある有名病院にいくとは考えにくい。むしろ手近な安上がりなところを選ぶだろう。そうやってお金を貯めて、高級住宅地や高級車や子どもの教育費を稼ぐわけだが、それではもうおそい。そこがこの規準のおそろしさ、いや残酷さである。