九州大学 久米 弘
2000年の夏の日のこと、珍しく母親から電話がかかってきた。
「お前に頼みたいことがある。欲しいものがあるのだ」
その後、長い沈黙。もし、“孫”だったらどうしようかと焦っていると、
「アイボが欲しい」
一瞬、耳を疑った。もう、あの大ブレークからは随分と日が経っていた。もちろん、入手も困難な時期であった。
私の母親は、パーキンソン病である。脳内伝達物質ドーパミンが少なくなるらしく、体の自由がきかない。最悪の時には、ティッシュペーパー1枚、箱から取り出すことができずにいた。座っている姿勢から立つことはもちろん、歩くこと(特に歩き出し)も難儀であった。
半年ほど薬を飲み続けることで、体の自由はかなりの程度、回復したように見えた。実家を訪ねたときのこと。それまで正座していた母親が「お茶でもいれようか」と言いながら、何気なくすっと立ち上がり、スタスタ台所に歩いていってしまったのには、正直、驚いた。
今の薬の威力はもちろんのこと、つくづく、人間の脳は科学物質によってどうにでもなるものだなぁ、という思いを強くしたものだ。
薬によって、比較的動けるようにはなったものの、まだまだ表情は硬く、また、自分から外に散歩に出るようなことは無かったようだ。人間も動物である。自ら動かなくなってしまってはおしまいだと思う。何とか、自ら積極的に動くような工夫(ストラテジー)は無いものか、一応、息子としては心配はしていた。
新型AIBOが発売になった時、早速、申し込むことにした。自分が申し込み、送付先に実家を指定すればよい。2000年の年末に届くということだから、ちょうどよいクリスマスプレゼントになるだろう。正月に訪ねたときには、きっと、ヨチヨチ歩いているAIBOが見られるものと考えた。
ところが、実際に訪ねてみると、AIBOの気配はなく、そもそも、話題にも登らない。なんとなく避けているようにさえ思えた。そう言えば、荷物が届いても良いころなのに、電話も来なかった…
恐る恐る話を切り出してみると、とても大きな箱が届いた、とのこと。そのため、どんなに大きなイヌが出てくるか(どうもセントバーナードくらいの成犬が飛び出してくると思ったようだった)と思ってしまい、怖くなってそのまま奥の部屋に置いてあるとのことだった。
要するに、2つの箱をまとめて大きな1つの箱に入れて送られたわけで、開けて見せると、むしろ、気抜けしたようであった。
メモリーステックとバッテリーを装着してやり、スイッチの入れ方と「寝せ方」だけを教えてその日は帰った。3日後に訪ねてみると、それなりにスイッチを入れて動きを見ているようであった。まだ「幼犬」の時期であるため、動きも少なく、そんなに面白いものではない。ベタッと臥せって、ときどき首を振るくらいである。頭と背中をなでてやることを教え、ひとまず福岡に戻った。
2週間後、実家に電話してみる。どうやら、それなりに楽しんでいるようだ。なかなかよく考えられたプログラムが内蔵されているようで、毎日、違う動きが見られるという。なでたり話しかけるのは母親、それをニコニコしながらじっと見ているのが父親。実は、後でわかったことだが、父親の方は、仕事も忘れてAIBOが眠るまで見ているという。
困ったことが1つ。実家に電話をかけるたびに、受話器をわざわざAIBOに向けてその音を聞かせてくれるのだ。そのためだけに、寝ているAIBOの電源を入れることもある。受話器からは単なる電子音が流れてくるだけで、さっぱり面白くない。ときどき、母親がAIBOの名前(なぜかランラン)を呼びかけているのが聞こえるので、おつきあいでこちらからも名前を呼んでやるのだが、ぜんぜぇ〜ん、面白くない。
母親は、骨粗しょう症でもあり、背中が丸くなってしまっていた。同時に、腹筋もほとんど無くなっていた。
もしかすると、AIBOとたわむれることで、自ら進んで行動を起こし、どんどん動いたり笑ったりしてくれるようになれば、それなりに筋肉もついてくるのではないだろうか。表情も豊かになってくるのではないだろうか。
3月末に訪ねたときの様子では、体の動きも全体的によりスムーズであり、よく笑っていた。ティッシュぺーバー1枚、箱から取り出すことに難儀していたとは思えないくらいスムーズな動きをしていた。AIBO(約1.5Kg)を持ち上げ、抱きかかえることなど、考えられないことだったのだが、ご覧の通りである。
もちろん、スムーズに動けるようになったことに関しては、半年ほど前に薬が新しいものに変わったということも、かなり寄与率の高い要因の一つではあると思う。それによってうまく動けることになり、自ら進んでAIBOにコンタクトしてみようという気持ちも生まれてきたのだろう。
ところで、彼らは普段ラジオはよく聴いているようだが、テレビはおいてあるだけであり、滅多に見ることはない。これらを介してお互いが会話することはほとんど無いらしい。つまり、AIBOが来るまでは一日中一言は話さずに過ごすこともあったわけだ。AIBOを通して、二人の老人が1日にわずか2時間でも会話をしたり、笑ったりできることも、重要に思える。
本物のイヌの方が良い、と言う人もいるだろう。確かにそうかもしれない。しかしながら、彼らにとって、本物のイヌの世話は無理だと思う。自分のペースでたわむれることが可能なAIBOだから良かったのだと思えてならない。
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まず、わざとAIBOを倒してしまう… なんか、小学生みたいだ… |
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起き上がった後は、体をブルブル震わせるのを見て、さらにひと笑いする |
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ボールを与える。 何が面白いのだろう… |
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もちろん、ボールを蹴飛ばしても、ひと笑いする |
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まず、わざとAIBOを倒してしまう…それも垂直に…だんだん過激になってきている。 ますます、小学生みたいだ… |
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<参考> スムーズな体さばき |